歌津

翌4月20日

「マニュアル自動車免許を持ってる」
「地図が読める」

この単純な理由だけでショコラに割り振られた仕事は、
「デリバリーチーム」
という支援物資の配達屋さんだった。


まだ雪の残る三陸海岸を走り抜ける。


ナイジェリアの写真家、クリスもうなった一枚。

三月末の被災時に比べたらなんてことない小雨

だけどアフリカ帰りのショコラには、
本当に寒くて寒くて。
ただでさえ現実感のない日本にぽつんと
振り落とされて迷子になっていたのに、
寒さが恨めしくて切なくて、
桜の季節でさえ心は温めてくれなくて、
象牙海岸の青と灼熱の砂塵に
身も心も恋いこがれていたのに。


方位磁針は完全に磁場を失い
上下左右をくるくる回り始めた。

まったくもって現実感のない景色。

かつて三陸海岸沿いを走ったのは学生時代。
45号線を北上して東北を一周して、
岩手の平泉や福島の猪苗代湖を
見て回ったあの時以来。


私にデリバリーの仕事を引き継いでくれた
吉田のおじちゃんと回ったのは、
南三陸町の歌津地区。


こんな山道の津波想定区域の看板。
一体誰が予想しただろうか、
あの黒い波が襲ってくることを。


吉田のおじちゃんは、
地区と名前と道がちんぷんかんのショコラに
いろんなことを教えてくれた。


三月末からの緊急支援の波が一時落ち着き、
ボランティアの数も急速に縮小してしまったこの時期。

被災直後は南は大船渡から北は女川までカバーしていた
RQ市民災害救援センターのデリバリー活動。

河北ボランティアセンターや唐桑ボランティアセンターの設立も
相まって、本部登米かたのデリバリー区域も一時縮小。

偶然このタイミングで
デリバリーにやってきた
元協力隊コンビは、

ニジェールくん→気仙沼市本吉地区&小泉地区
ショコラ→南三陸町歌津地区

を引き継いで、
デリバリー操業に走り出したのだった。


支援物資とボランティアの寝袋テントで埋め尽くされている
ある廃校体育館の一角で、
デリバリー会議が日夜繰り広げられている。


翌21日
NZからのボランティアの引き継ぎで
同じく歌津地区を回る。


彼らは「今まで活動中にこんなことしたことないけど」
といって海岸で車を降り、
ぼんやりと景色を眺めていた。

入り組んだ海岸
手入れされた庭や山々

どんなに美しかったことだろう

私達は元の姿を知らない


生死を分ける津波
本当にちょっとの高低差で、
運命はかくも道を分けてしまう
それも場所によって、
入り江のちょっとした切り込み方の違いによって、
波はまったく違う形相で
迫って来たのだ


日本語も堪能なNZボランティアコンビと
歌津半島と登米の避難所を回った。

最後は車中で会話が盛り上がりすぎて、
あんま引き継ぎになっていなかったw


吉田のおじちゃんのときから
お世話になってる高橋さんち

明るい陽子さんとはとても気が合い、
写真の掲載も快く承諾してくださった。

吉田のおじちゃんと回っていて
2、3度繰り返されたあり得ない会話

吉田「この娘、アフリカ帰りだから頼りになります!
どうぞこれからもよろしくお願いします」
ア「あれー!アメリカさね!どこさ行っとったとね?」
ショコラ「ア・フ・リ・カ!ガーナ帰りです♡」
イ「あれ…あんた、テレビさ出とらんかったかね?」
ショコラ「え…?もしかして皇太子殿下が去年
ガーナにいらした時かな?ちょっとお話したからその時かも…」
ウ「あんれー!どっがで見たことある顔だと思ったっちゃよー!」

そう!なんと、NHKでちょびっと流れた
皇太子殿下来ガのときの
邦人お出迎え時の映像。
伝統衣装と髪の編み込みで目立ったせいか、
友達ボランティアと二人して
お声がけいただいた映像が放映されていた。
宮城の人は、なんとそのことを覚えていてくださったのだ!

一件くらいなら、なんかの見間違いかな〜
と勘違いで終わらすことができたが
なんと歌津地区を回った三件で出会い頭に同じことを言われ、
かつ登米の本部近くで風呂に入れないボランティアに
「もらい湯」を提供してくださってる地元ボランティアの
おじちゃんにも
「あんた、テレビさ出とらんかったかね?!」
と言われてしまったら、
隠れる穴もございません!

いやー、恐ろしいね、NHK…
ありがたいことでございます。



最後は、キヨさんと高橋さんちにデリバリーしたときに
陽子さんの娘さん達が描いてくれた似顔絵!
今もデリバリー室に飾ってあります。

何かお役に立ちたくて、
それぞれに出来ることをただしてるだけの
ボランティア。
物資配達や情報の伝達、ニーズの聞き取り、
そんな運び屋さんのデリバリーをしてて、
被災者の方に元気や励ましをいただくことがなんと多いことか。

滅茶苦茶になってしまった
歌津の漁村
志津川の町並み

町こと消えてしまった本吉小泉

元の姿を私は知らないけれども、
この景色の前に立つと
ただただ途方に暮れてしまうけれども、
きっとこの言葉にならないみんなが思う気持ち
「何か出来れば」
それがエンジンになって、
今日も朝から地図と報告書とリクエスト表を読み込み
デリバリーに出掛け、
夕方帰って来たらお互いの地区と配達先の情報を共有し、
物資の在庫状況や最前線の情報ニーズを確認しあって、
ご飯もそこそこに夜も長々と
ミーティングを行い、
みんなで語らい合うのだ

ボランティアの無力感はアフリカでも一緒で
援助の理不尽さや不平等さもアフリカと同じで
現場はやっぱり様々な現実を見せつける

何が出来るのか、
プレッシャーに押しつぶされそうになったりもするけど、
でも何か出来てれば、それでいいのかな

とにかく初めての災害支援ボランティア活動は、
引き継ぎ嵐という偶然も重なって
目の前の現実を受け入れる余裕もなく
バタバタバターっと目前の仕事をこなして
慌ただしく二週間が通り過ぎて行った

コメント

From Broadway さんの投稿…
Our prayers continue to go out to japan!
SHOKOLA さんの投稿…
thx ur sweet message hun! yes we are... told ppl der dat world send prayers n loving care:) am sure dey r encouraged...small samll. wat we can do is so small but still we continue wat we can do.

このブログの人気の投稿

喧噪とゴージャスの狭間に揺れる、魅惑の駐在員ライフ@香港

日本でマラリア発症

神様がくれたHIV