アフロビートの奇跡ー序章ー


ガーナ人の友達は、奇跡的に来日を果たし、波瀾万丈の日本ステイを過ごして無事アフリカに帰って行った。九月初旬に日本を襲った大型台風も手伝って、ガーナからとんぼ返りして同行した日本人の友達と一緒に、本当に嵐のような怒濤の日々を送った。サンデーとの出会い、エボ・テイラーのおじいちゃんの故郷ガーナ、彼が率いる多国籍バンド、アフロビート・アカデミーとの交流。サンデー達ご一行様のお世話をした日本のエージェント・ケンさんは無類の音楽マニア。サンデー達と現地語喋ってまるで現地人ばりに溶け込むショコラ達に、ケンさんは興味をもった。そんなケンさんに頼まれてサンデーとの出会いやショコラ達の活動、ガーナという国、そしてアンクル・エボテイラーについてエッセイを書いた。まーもっとドラマチックな現実はきっちりブログに起こします♥取り急ぎ、ケンさんいわく「アンクルの奇跡的な来日を、日本の音楽ファンに」お伝えすべくショコラもお手伝いさせて頂きました。ケンさんは、ショコラの知らない音楽業界の裏話エピソードをてんこもりにご自身のブログに書かれる予定なので、そちらもcheck it out☆ではではガーナ音楽関係の新たな物語「アフロビートの奇跡」の序章をご覧アレ♬



 私達が敬愛してアンクルと呼ぶエボ・テイラーの故郷は、西アフリカはガーナの海岸沿いにあるソルトポンドという町です。英語の名前からも分かる通り、植民地時代からある古い街です。近代化の進む首都アクラの喧噪を走り抜け、車で二時間ほど西に向かうと片田舎の静かな町に辿り着きます。白い砂浜、生活に溶け込む波音、背の高いヤシの木、うっそうと茂るマングローブ、木々の覆う小高い山の連なり、そこがアンクルの故郷です。

 近くにはケープコースト城という奴隷貿易の世界文化遺産があります。最近はアメリカ初の黒人大統領バラク・オバマが故郷ケニアの前に訪れたことで有名です。ガーナは1957年にサハラ以南のアフリカ諸国で最初に独立した国です。ガーナ人は南アフリカのネルソン・マンデラと同じくらい、ガーナ初代大統領クワメ・エンクルマを誇りに思っています。

 ソルトポンド出身のアンクルは、ファンテ語を喋るファンテ族です。ファンテの人は陽気で明るい人が多く、冗談を言って笑い合うのがとても上手です。日本と同じくらいの国土に約2200万人が暮らすガーナ共和国は、50近い民族が共生する多民族国家です。一大勢力を占めるチュイ語を話すアシャンテ族とは兄弟のような民族関係にあるファンテ族。ガーナのいろんな町、そして世界中に移民したガーナ人の中にもよくいる多数派の民族で、典型的なガーナ人です。


 ガーナ人が最も愛する物は、伝統的なガーナ料理と音楽です。アンクルの息子にしてキーボードプレーヤーのヘンリーは、ガーナから三日間もの長旅でいったい何を日本に持ってきたかと思えば、ファンテ・ケンケというトウモロコシの粉を発酵させた昔ながらの食べ物と、それに付け合わせるシトーと呼ばれる唐辛子や魚で作ったスパイスでした。そして舞台で見せたヘンリーの素晴らしい踊りが物語っています。音が聞こえたら、リズムが響けば、ガーナ人は自然と身体が動きだし、本当に楽しそうに踊りだすのです。

 おせっかいなビッグママ(大きい女の人の呼称)、マンゴーの木の下で暑さを凌ぐおっちゃん、学校に通うスクールキッズ、道端で物売りを営むシスター、インターネットカフェにたむろする兄ちゃん。

 みんなみんな、音楽が聞こえると自然に腰が動き、手にハンカチを持って踊り始めます。村の酒場、おんぼろタクシー、水も電気もない山奥の村にさえラジオ電波にのって音楽は鳴り響き、教会の結婚式はもちろん、盛大なお葬式は広場のど真ん中にスピーカーを積み上げ爆音ハイライフ音楽を放出します。そして皆、高らかに歌いあげ、踊り狂います。


 首都アクラからバスで10時間の田舎に住む私が、パーカショニストのサンデーと初めて会ったのは首都の音楽イベントです。友達の太鼓の先生だったからで、とてもフレンドリーで天真爛漫なサンデーとはすぐに友達になりました。私は青年海外協力隊の村落開発普及員として、環境活動や女性グループによる石鹸作りを支援して収入向上活動に取り組んでいました。サンデーは南アフリカや欧州にも演奏旅行にいく太鼓の名手ですが、コジョ・アンチュイというガーナ人歌手の国内演奏ツアーで私の住む田舎の村まで来たことがあります。昼間はどこに隠れていたのだろうというほどの大勢の大人達が村一番の文化会館に押し寄せ、四時間ぶっ通しのライブを全員総立ちの大合唱で踊り明かしました。アフリカの田舎では金銭面から建設工事が途中でストップする建物が多いのですが、その会場も例に漏れず雨が降れば床は大洪水、二階の観客席に欄干はなく、ガラスのない天井窓からは満天の星空が覗いていました。でも闇に浮かぶ彼らの黒い肌はどの笑顔もきらきら輝き、そこにいる全員が音と光の洪水に酔いしれました。


 首都で働く友達とは、ジャズバー+233にも行きました。彼女の勤め先は、貧困から女性と子供を救うためにガーナの染め物や手工芸品などをトレードフェア商品として国内で生産、海外に輸出する米系NGOです。毎週火曜日にサンデーは馴染みのバンド仲間と+233で演奏していて、当時の私のガーナ最後の夜(それは東日本大震災の直後でもありましたが)彼らは葉加瀬太郎の情熱大陸を完全なるアフリカン・ビートで演奏しました。+233で彼らの音楽が最高に響き合うのはいつものことですが、日本人の私にとってその即興演奏は今も鮮やかに蘇る西アフリカの喧噪の夜の最高の思い出です。

 日本に帰国してからは宮城県や福島県の被災地で災害ボランティア活動をしていた私に、欧州演奏旅行でベルリンに滞在中のサンデーから連絡が入りました。「ショーコ、ひさしぶり!元気?今度エボ・テイラーの演奏で日本にいくからよろしくね!」リンク先を開くと、メタモルフォーゼの出演者リストに見覚えのあるモノクロのポートレート写真がありました。それは私がよく出入りしていたパンジ・アノフの家のスタジオから一冊頂戴した首都で発行されるフリーペーパーDUST、その表紙と同じ写真でした。私がガーナに住んでいた二年間、すでに第一線を退いたアンクルはガーナで活発な音楽活動を行っていませんでした。しかしアンクルの欧州での活動再開はガーナでも話題となり、ちょうど特集記事が組まれたのでした。パンジ・アノフは近年ではガーナ人歌手のファッキン・ボーイズ(メンサ&ワンラブ・ザ・クボロー)と共に世界初のピジョン英語(若者のスラング言葉)による全編ラップのミュージカル映画COZ OV MONIを制作しましたが、実は80年代や90年代のヒップライフ音楽を牽引した名プロデューサー。サンデーは、ワンラブ・ザ・クボローのバンド演奏を勤めたこともあり、パンジ・アノフとも長い付き合いでした。



 アメリカ出身でベルリンを活動拠点にするサックス演奏者のベンが、音楽仲間のベーシストのジャンと共にガーナに訪れたのが2007年。この時、ベン率いるアフロビート・アカデミーにアンクルを紹介したのがパンジ・アノフだったそうです。この出会いとその時のセッションが、アルバムLove & Deathの収録、大成功を収めた欧州演奏ツアー、そしてついには今夏の来日に至りました。


 その昔、クワメ・エンクルマ大統領に奨励されてイギリスで音楽活動を行い、ハイライフ音楽の発展と研究に大きく貢献したアンクル。人生を歌うファンテの音楽、さまざまな意味を表す伝統舞踊、物語を伝える芸能に、ギター、ホーン、ピアノを融合させたアンクルのハイライフ音楽。アルバムはフェラ・クティの世界観を彷彿とさせるが、しかしアフロビートもハイライフの派生音楽だとアンクルはDUSTのインタビューに応えます。ミュージカルFELA!がイギリスで成功を収めたように、アフロビートやハイライフ音楽は海外での評価が著しいです。他方、その生誕の地ナイジェリアやガーナで若者が夢中になっているのは、アメリカナイズされたヒップホップやダンスホール音楽、黒魔術と愛憎劇にまみれたサスペンス・ドラマだったりします。アフリカの一部のセレブや音楽人だけでなく、そして欧州のアフリカン音楽マニアだけでなく、こうして縁あって来日したアンクルとアフロビート・アカデミーが織りなす音楽と世界を、私達日本人が日本で共に分かち合った奇跡。物理的的にも精神文化的にも、もっとも隔てる者同士が感動を共有できることは、これこそがこの世における人の生の醍醐味なのではないかと思います。







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